ノラ猫とフェドラ帽

ノラ猫とフェドラ帽の観察をしています。

ヤフーブログでも「ノラ猫とフェドラ帽と放浪」というタイトルで備忘録を書いています。

ステットソンの歴史 (Stetson Heritage) その1

1830年5月5日、John Batterson StetsonはNew JerseyのEast Orangeで生まれました。
ここは、彼の父であるStephen Stetsonが最初の帽子工場を建てたところでした。(ちなみにStetson Hat Companyに訴えられたStephen L. Stetsonは、John B. Stetsonの甥の息子ですのでお間違いのないように)
この工場は、Brick Church区画のMain Streetに面していたが後にOrangeに引っ越し、次第に”No Name Hat Company”として知られるようになりました。
”No Name Hat Company”は、George Washingtonの帽子を作ったと言われています。
1893年に、Jphn B. StetsonのいとこであるHenryがNo Name Hat Companyの社長になりました。

John B.が30才の頃、結核に罹りその治療のために西部に向いました。(なぜ結核を治すために西部に行ったのか分かりません。)彼はパイクス山で金鉱探しを始めました。一攫千金を目論んだのでしょう。
金を探して荒野を彷徨う中で、彼は身に付けていたフェルティング技術で防水の毛布や帽子を作りました。彼の作った帽子は、風雨に耐え、厳しい自然環境から彼を守ってくれたのです。
この時作った帽子が、後に“Boss of the Plains”と呼ばれるStetsonの帽子事業の中心であるWestern Hatの原型になりました。この製法は今でも引き継がれているとされていますが、1971年にStetson Hat companyがフィラデルフィア工場を閉鎖し、帽子製造から手を引いてからは、この製法が引き継がれているか分かりません。

1865年、金探しの夢に破れたJphn B.は東部に戻り、止むなく帽子作りをすることにしました。
帽子作りが、John B.にとってできる唯一の仕事だったからです。
彼は、姉のルイザから60ドルを借り、そのお金で、必要な道具と毛皮を買い、フィラデルフィアに小さな部屋を借り、2人雇いました。これがStetson Hat Companyの最初の一歩でした。
彼は、他の競争相手と差別化を図り、“Boss of the Plains”と呼ばれた帽子の注文を取る為に南西部の多くの帽子販売店にダイレクトメールを送りました。

やがてStetsonの努力の甲斐があって、20世紀初頭には世界最大の帽子工場にまで成長したようです。19世紀後半から20世紀初頭にかけてStetsonの帽子を着用していた有名人には、バッファロー・ビルとして知られているWilliam F. Cody大佐、カラミティー・ジェーン、ウィル・ロジャーズ、そしてアニー・オークリーなどが居ました。

事業に成功しStetson Hat companyを世界の帽子メーカーに育てたJohn B.は、1906年にステットソン大学の理事会に出席した直後、脳動脈瘤で死亡しました。
彼の死後もStetson Hat Companyは成長を続け、1915年には、フィラデルフィアの36,000 m2の敷地に25もの工場を持ち、5400人の従業員を使い、年間333,600の帽子を生産するまでになりました。
1920年代になると、Stetson Hat Companyは上院議員や大統領に特注の帽子を作るようになり、それは今日まで続いている伝統です。

つづく。

(本文書の一部もしくは全部の著作権は、Core Architecture Technologiesにあり、無断転載は禁じます。)
ヴィンテージフェドラ帽 > Stetson | comments (0) | trackbacks (0)
                                    

COMMENTS

Comment Form

TRACKBACKS

CATEGORIES
NEW ENTRIES
RECOMMEND
【Juniper SRX210H-POE】…JUNOSの勉強用に最適です。
Juniper SRX210H-POE

Personal Computer (発売日:)
RECENT COMMENTS
ARCHIVES
PROFILE
OTHER
  • count : hits!